まだ私の父が文楽の人形遣いだった頃、
母が女優をやめて作家になろうとしていた頃、
私たちは調布の『第二はくよう荘』というアパートに住んでいた。
「柏葉荘」という漢字だと思うけれど、記憶は曖昧。
私はそのくらいの子供だった。
六畳一間のアパートを二部屋借りていたのだが、六畳は大体20平米くらいだろうか。
合わせても40平米、トイレと台所を合わせても50平米なかっただろう。
お風呂はなかった。
そこに兄と私とまだ赤ん坊だった弟の三人の子供がいた。
そして、シップスという大きな黒猫がいた。
3人の子供たちが殴り合いわめき泣き叫ぶ家を、
母は「だまれ第二はくよう荘」と呼んだ。
あの時の母は、どういうノリで生きていたんだろうな?
今、家を買おうというこの時に、しばしば思う。
あのアパートは、5人の人間と一匹の猫が暮らすためにはあまりにも狭かった。
お風呂はないし、エアコンもないし、ベッドすらない。
クラシックな日本式に、夜がくると布団を敷いて寝たのだ。
母も父もそれなりに裕福な家庭で、それなりに広い家で育った。
それでよくあのオンボロの狭いアパートに住めたものである。
移り住んだ時にはすぐ出る予定だったのかもしれないが、
結局私たちは12、3年はそこから動けなかった。
もっとも「物件」という目で見てみると、
あのアパートは悪くなかったかもしれない。
目の前が公園で、ベランダも庭もあり、調布駅まで徒歩5分。
今ではあの辺りは駐車場とマンションになってしまっているが、
私たちが住んでいた頃にはまだ畑が広がっていた。
5人で住んでいたと言っても、父はほとんど家にいなかった。
文楽の人形遣いというのは、
大阪の国立文楽劇場と東京の国立劇場を往復するような形で生きていて、
その合間に国内やら海外やらの巡業に出かけてしまうからだ。
だから、普段は母と子供3人とでアパート2部屋で暮らしていた。
風呂がないのに、トイレと台所は2つあった訳で、
それは便利だった。
なぜこんな話をしているかというと、
子供の時に住んでいたサイズの家が、
私にピッタリくるサイズなのかもしれないな、
とふと思ったからである。
自分にとって最適なサイズはもちろん人によって違うだろうけれども、
少なくとも私にとって居心地の良い家とは、
新しくてモダンで広々とした家ではないかもしれない。
私は小さくてオンボロで、ご近所さんも貧乏人ばかりの家で育った。
そういう暮らし方に慣れているし、そういう暮らし方が怖くない。
小学校五年生になる時に、私は祖母の大きな家に引っ越したけれど、
自分の感覚の中にデフォルトのサイズ感として小さな家が今も残っている。
このハードルの低さは、ヨーロッパで女ひとり生きていくにあたって、
父母に感謝すべき長所かもしれないと思い始めた。
マッチ箱みたいな小さな物件を見つけた時に、
何故か心の安らぎを感じた。
マッチ箱みたいだから、大変にお安い。
その価格も、これまでの物件みたいに私を脅かさなかった。
朝昼晩と違う時間帯に物件の偵察に行って、付近の治安状況を確認せよ、とZorokuが言うので、私はある日の夜中にこのマッチ箱の家を見に行った。
夜中の十時頃だったけれど、夏の盛りだったからまだそれほど暗くない。
薄暗がりの大きな建物の前庭に、
ヒジャーブを頭に巻いて、色とりどりのゆったりしたサテンの服を着た女性たちが集まって、
ひそやかに話しながらお茶会をしていた。
女性の子供たちが横の小さな公園で駆け回っていたけれど、
不思議なほど静かで、穏やかな光景だった。
という訳で、私は移民街のど真ん中に、
マッチ箱みたいな小さなその家を買うことにした。
話は今のところ、とんとん拍子で進んでいる。
小さな家は、売る方も買う方もノープレッシャーなのである。
引っ越しはまだ先、恐らく冬になりますが、どうぞ遊びに来てね。

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